天皇からの手紙

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海コラム

コラムニスト: 久保彰良

Vol.03 天皇からの手紙

海事博物館に展示されている『秋津州』の遺物、銃床の朽ちた三八式小銃 (写真提供=大濱裕次)

水深6mの酸素減圧でアクシデント発生

先に上昇を始めた先行チームのケヴィンとパズの後を追って、タケシゲと私もライン沿いに浮上した。ナイトロックス50の減圧シリンダーにガス交換し、3m毎の停止を繰り返す。横倒しになった船の右舷側、深度21mから5回、合計15分間のインターメディエイト・ストップ1※の後、船の前部甲板から水深6mに下ろされた減圧停止用バーで、すでに酸素減圧を始めている彼らに追いつく。水面を見上げると西に傾き始めた初秋の陽光に、『ラッグスⅡ』の紅色のハル2※と白いアウトリガーのコントラストが柔らかく映える。
甲板上から送られる酸素に、減圧ガスを切り替えて2分も経った頃、なぜか呼吸が渋い。周囲を見ると全員が同様に感じているようだ。マスク越しに4人が目を合わせると、肩をすくめて笑っている。いや、この状況を楽しんでいる、といったほうがいい。誰が言い出すともなく、それぞれが、左に抱えたままのナイトロックス50に再びガス交換し、ポケットからウエット・ノートを取り出す。酸素が使えない場合の予備の減圧プランを確認し始めた。万が一、ナイトロックス50が不足するようなことがあれば、緊急を意味する黄色のサーフェス・マーカー・ブイ3※を上げればいい。我々は『ラッグス』のすぐ下にいるのだから。



『秋津州』の遺物に添えられた手紙

スービックのレストラン「ヴァスコズ」に隣接する「海事博物館」には、ひと振りの軍刀と銃床の朽ちた三八式小銃、そして1枚の日本語の手紙がある。菊花紋章の付いた刀と小銃は、1944年にコロン湾で沈んだ旧日本帝国海軍の水上機母艦『秋津州』から引き揚げられたものだ。博物館を所有するグレッグとブライアンのオーストラリア人父子は腕のいいサルベージ・ダイバーで、1960年代初期から80年代にかけて、フィリピン近海の中国の交易船やスペインのガレオン船を探査し、その当時の資料がこの博物館に展示されている。そしてそれらの積荷や難破船の何隻かを引き揚げてフィリピンの近代水中考古学に貢献し、さらに太平洋戦争末期に多くの日本船が沈んだカラミアン諸島のコロン湾でも活躍した。
父のグレッグは『秋津州』から引き揚げた軍刀と三八式小銃を一度は宮内庁に返還した。軍刀と銃は再び発見者のグレッグに戻されたが、日本語の手紙は、彼のその行為に対する昭和天皇からのお礼の手紙であった。艦名の「秋津州」とは「日本書紀」に登場する言葉で、元来「本州」を意味し、転じて「日本」の別名となる。他に例のない異形の戦闘艦に「日本」そのものの名前をつけた理由は、その特異な存在を世界に誇示しようとしたのか。熱帯の海底から故郷に帰還した菊の紋章の付いた刀と銃を受け取った天皇が、その時どんな感慨を持ったのか、戦争を知らない私にはうかがい知る由もない。しかし海事博物館でその軍刀と三八式小銃、昭和天皇がしたためた手紙を見た時、そのコロン湾に、錆びた刀と朽ち果てた小銃の持ち主が永眠する『秋津州』というシップ・レックに、私は潜らなければならないと思った。
2007年11月17日の夕刻、バタンガス港から我々9人のダイバーは、パラワン島の北、カラミアン諸島を目指して、全長27mの深紅に塗装されたクルーズ船『ラッグスⅡ』に乗り込んだ。『ラッグス』は、フロント・ブリッジとダブル・アウトリガーの『秋津州』に劣らないユニークな型の船だ。9人は、ロサンゼルス、ホンコン、イェテボリ、ソウル、マニラ、バンダリスリブガワン、ロンドン、そしてトゥキョウからと多彩で、まさにこの船の名前4※にふさわしい。通称「コロン湾」と呼ばれる海域は、正確にはカラミアン諸島を構成するブスアンガ、クリオン、コロンの3つの島に囲まれた水域を指す。これらの島々は、切り立った石灰岩の高い崖に囲まれ、したがって穏やかで水深もあり、自然の港として大型船が停泊する条件が整った“大きな湾”なのだ。



世界初の水上機母艦に黙祷を捧げ、船内へ

1944年9月の朝、彼女は沈んだ。第二次世界大戦末期に劣勢となり、マニラからコロン湾に退避した日本の輸送船団18隻は、アメリカ合衆国艦隊第38機動部隊から飛び立った180機のF6Fヘル・キャット戦闘機とSB2Cヘル・ダイバー急降下爆撃機の攻撃によって、わずか数時間で全滅した。『オリンピア丸』『興業丸』『極山丸』『おきかわ丸』『太栄丸』など、多くは軍の輸送船として徴用された民間の船の中で、給糧艦『伊良湖』と『秋津州』は帝国海軍の艦船であった。とりわけ『秋津州』は、当時世界最大の水上機、二式飛行艇を吊り揚げて搭載する、世界でも貴重な目的と機能を備えた艦船であった。迷彩色に化粧した彼女は1941年7月に進水した、全長115m、排水量4650t、8000馬力のディーゼル4基2軸を持つ、世界初の水上機母艦である。正式に帝国海軍に配属されて以来、2年にわたりラバウル、サイパン、チューク、ソロモンと転戦したが、最後に乗員540名と1944年9月5日に佐世保港を出て、その19日後に短い彼女の戦歴を閉じた。
船尾の飛行艇を吊り上げる大型の35tジブ・クレーン5※で、すぐに『秋津州』だとわかる。水深は30m。左舷を下に、ほぼ形をとどめて彼女は眠る。横倒しのクレーンの前方甲板付近に、船幅を横断するように甲板がめくれ上がって大きな亀裂が走り、その周囲にはサンゴのガレキのように機銃弾が散乱している。船外にタイ・オフして、内部侵入の入口である亀裂に向かうジャンプ・ラインの脇には2本の減圧シリンダーがステージされている。カリフォルニアの日系自動車関連企業に勤めるケヴィンとボーイング747旅客機の機長のパズだ。事前に打ち合わせたとおり、途中で彼らと交差することを予想して、狭いエンジンルームにペネトレーションする気持ちの準備を始めた。入口となる甲板の亀裂の前で、私は心の中で、軍刀と小銃の持ち主へ、そして亡くなったすべての乗員に黙祷を捧げ、目を閉じて頭を下げた。
***
最後の減圧を終えた我々4人が船に上がって、甲板の7000リットルの親瓶から直接送っている減圧用酸素がすぐに途絶えたことを船長のフランクに告げると、『ラッグス』のオーナーでもある彼は笑いながら陽気に謝る。「ゴメン、君らが潜っている間に、クルーに酸素シリンダーの交換を指示するのを忘れてた!」
だが、オージィ6※のフランクを責めるダイバーは誰もいない。「まいったよね」くらいの苦笑いで、心の底から気持ちよくさばけている。閉鎖環境のレック・ダイビングは、いやオープン・ウォーターであったとしても、ダイビングそのものが、想定可能な、あるいは予測不可能な危機さえも、すべてを自分の責任で引き受ける“遊び”であることをよく知っているからだ。



※1=中間深度停止。標準減圧ガスのナイトロックス50を使う場合、21mから9mまでの浮上で行う5回の減圧停止を指す
※2=船体、船のボディを意味する
※3=SMBあるいは水面下から打ち上げるのでDSMB(Delayed Surface Marker Buoy) とも略号表記する。色により、通常手順か緊急かを識別するローカル・ルールがあることも
※4=Ragsとは、「ぼろ切れ」の意味。複数形の場合、色やサイズの違う端切れを継ぎ接ぎした布を指す
※5=「ジブ」は横に張り出した「腕」の意味で、逆L字型の大型回転クレーン
※6=「オーストラリアの」を意味する俗称。フランクの出身国

ほし店長